2017年1月30日月曜日

採用が決まってからしたこと

引っ越しの準備
とにかく資料や研究書が多い。運ぶだけでも大変だが、分類して箱に詰め(サイズごと)、使用目的ごとに箱に詰め(テーマごと)、ということをしているうちにいろいろな資料を捨ててしまうことにもなる。運ぶのにも運賃がいれば、所蔵するのにもコストがかかるからだ。

もし研究室に入れることが確実な書籍(研究対象にかかわる資料)があり、かつ研究室があいているなら、そこに直接送った方がいい。なぜなら、新居に送ってからさらに勤務先に移動するのは大変だし、お金もかかることだから(車があってもなお)。

研究室が空室でない場合(つまり、前任者がぎりぎりまでいる場合)、書籍は着任時まで新居で保管することになる。ならば、できる限りの本は持っていくべき。いらなければ勤務先の大学で捨てればいい。とにかく資料はごっそり持っていくことが望ましい。

採用が決まったら

決まってからするべきことも多い。箇条書きにする。

・同時進行の公募先大学への選考辞退の連絡。
・非常勤先での担当コマを続けられない場合はその連絡。
・お世話になった先生方への連絡(指導教員など)。
・引越しの準備。
・採用先大学に提出する書類の準備。
・来年度からの授業準備。

人によっては該当しないものもあるだろうけれど、大事なことは、どの方面にも失礼にならないようにすること。非常勤先などは新しい後任を探す苦労をかけるのだから丁重にお礼を言って、その上で残念ながら継続して教えられないということを伝える。

上に書いてみて思ったが、人はいろんな人のお世話になっている。

採用の連絡が来るまで

採用の連絡がいつくるというのは大学によって、また公募によってもまちまち。同じ大学の中でもいろんな事情で別々の時期に公募が出て、採用予定者が決定する時期も異なる。一般的に書類選考、面接、内定確約、大学内部での正式決定(理事会など)を経て決まるので数ヶ月かかる。特別な事情がある場合はもっと早い(年度末ギリギリに突然出た公募など)。したがって、いつ返事が来るかを知ることは難しい。なお、早いところでは面接の日に電話で教えてくれる(内部手続きはこれからだが全会一致で決まりました、という場合など)。

模擬授業について

昨今は面接と同時に模擬授業をしてくださいという大学が多い。これは授業の下手な選任教員を取りたくないという大学の願望の現われだ。テーマが先方から指定されることが多いが、学会発表などと混同してはいけない。扱われている内容について、先生たちを相手にしているのではなく、はじめてそれを学ぶ学生に向かって授業しているように「演技」することが必要。ビジュアル資料を使うのはいいが、長尺の映画などは手抜きをしているように見える。書類ではそれほどでもなかったが授業が抜群に上手い人がいると、そちらのほうが評価が高くなる場合がある。2,30分のところが多い。終わってから学生役の先生たちから質問などがされることもある。

面接で聞かれたこと(5)

他の大学への応募状況を問われることがある。隠すことのメリットもないので、正直に言ってよいだろう。もうひとつの大学とうちの大学と両方決まったらどちらに行きますか、という質問もされるかもしれない。これは正直に答えるのが必ずしも正解とはいえない。先に返事をくれたほう、というのも悪くない答えだが、その状況状況に応じて検討するというのが正しいだろう。

面接で聞かれたこと(4)

勤務に当たって、引越しなどが必要になる場所の大学では、その可能性や成否を聞かれる。基本的には応募する時点で現実的でない勤務先は除外するか引越しを前提としているはずだから問題はないだろう(行きたくない地方都市の公募に応募するべきではないし、見知らぬ土地を知ることに興味がある人以外は地方都市の大学の公募に応募してはいけないのだ)。

蛇足となるが、自分の知らない土地、街の大学に応募した場合、どんな生活をするのだろうとちょっと浮き足立ってSUUMOなどを見てしまうことがある(筆者はあった)。けれど、その行為によって公募に受かる可能性が増すわけではないので、まったく意味がない。夢を見るのが悪いわけではないが、次の公募に備える方が現実的だということを言いたい。

行った先ではとにかく「生活」を営むほかないのだし、それがどんな場所であるかに依拠しているかを考えている時点で、たぶんあなたは『純粋培養』なのだ。大学教員を目指してはいけない。

面接で聞かれたこと(3)

私立では創立者の建学の理念などを建て前として共有していることが望まれるので、そういったことについて問われることがある。公募を出す前に大学についてはすこしリサーチしているはずだから、その中に大事だと思われることはあるはず。

面接で聞かれたこと(2)

授業経験がある場合はそれに関すること。また、非常勤しかしていなかったのであれば常勤になって関係するであろう問題について。たとえば昨今メンタルヘルス面で問題を抱える学生が多いが、それにどう対応するか、とか教育現場でホットな話題についての見解を聞かれることが多かった。ただし正解はないので、自分だったらどうする、というところを知りたいのかもしれない。あるいは、問題を解決する際の態度を見たいのかもしれない。

面接で聞かれたこと(1)

教えることになっている内容についての具体的な質問はほとんどなかった。むしろ、「この大学でよいのか?」「期待しているような教育・研究(労働)環境ではないかもしれないが」ということを言われることが多かった。後者については理系の人の場合は、実験機器のことなどでデメリットとなることもあろうが、文系で、かつメジャーでない学問をやっている人には特に問題はないかもしれない。

面接にかかる交通費が支給されない場合

面接にかかる交通費が支給されない場合、その面接を受けるべきか受けないべきか。

これは間違いなく受けるべきだ。

採用側に身を置いたとして、仮に面接旅費が支給される場合を考えると、人を面接に呼ぶことの心理的負担が減る。いっぽうで、面接旅費が出ないにもかかわらず誰かを面接に呼ぶとなれば(わざわざお金を払ってきていただくならば)、当て馬やかませ犬といった候補は呼ぶことができない(心理的に)。なので、この公募で面接に呼ばれたらおそらくは優先度の高い候補(1,2,3位くらい)になっているということだ。

さらに、旅費が仮に100万円かかっても常勤になれば100万円以上軽く稼げるわけだし、期待値が大きい宝くじを敬遠する理由はない。

逆に、こういう一見デメリットとも見える条件が書かれている公募は頭の悪い人は応募しないので、激戦になることは間違いない(さらに旅費が出ないのは国公立)。

とすれば、面接に呼ばれた時点で相当いいポジションにつけているのだから、この「模試」を受けないのは勿体ない。受かればなおのことだ。

応募先の選別

非常に難しい。

知っている大学、行ったことのある大学、有名な大学といった基準もあるが、つぶれない大学、教員を大事にする大学ということは評価しづらい。

たとえ話になってしまって恐縮だが、非常にすぐれた学歴の人が地方のあまり有名でない大学に行って自分のことを宝の持ち腐れだと思ったとしよう。その人が中央の大学に行ったからと言って労働環境、待遇、研究時間の確保については保障されない。

そもそも、出身大学よりいい大学にはいけないゲームなのだから、かならず先述の持ち腐れ感は味わうはずなので、問題とするべきは:

仕事のしやすさ
人間関係
研究費の多寡

である。地方国立の方が私立や都会の国公立より待遇がいいということは、案外よくある。こういうことは、なかなか知りえない情報だが、「その地方における地位」みたいな視点を導入すると見えることがある。いい大学は大事にされているからだ。

2017年1月26日木曜日

書類の巧拙

書類の書き方ひとつ見ても受かるポイント、落ちるポイントがある。

落ちる書類は:
明らかによそに出した書類の使い回し。
ケアレスミス。
写真にやる気がない。

受かる書類は:
読みやすい(ユーザーフレンドリ)。
素人向けに書いている(専門以外の人にもわかる)。
写真に人柄の良さが出ている。

写真は欧米では載せないことが多いのかもしれないが、日本で就職するなら写真屋さんでとってもらうに越したことはない。数千円の投資でバラ色の未来が待っていると思えば、宝くじよりも期待値が高いならば、何を迷う必要があろう。

公募に応募するにあたって(10)

大変難しいことだが、身近に最近公募に通って採用された人がいる場合は、書類の添削をしてもらうといい。また採用人事にかかわったことがある人などにお願いできればなおいい。自分では気がつかなかった問題点や、大学側が聞きたいことに対してピントのずれた内容の書類を作成していることもある。岡目八目ともいうし、お願いできる人があるならば、それはよい人脈を持っているということだ。

公募に応募するにあたって(9)

中には応募書類を返却してくれる大学がある。抜き刷りなどが十分な数ない場合などは大変ありがたいことだが、返却された書類は目を通そう。たとえば、審査に当たった先生のメモ書きや付箋などがあったり、その跡が残っている場合、いかなる意味でそれがあるのかを考えてみる。問題があるのかもしれないし、評価されたのかもしれない。判断は難しいことだが、真剣に審査をしてくれた人がいるということだけでも、救われる。

公募に応募するにあたって(8)

難しいことだが、周囲のことをあまり過剰に気にしてはいけない。同年代の人がどこどこの大学の常勤に決まった、などという話が聞こえてくるだろうが、あせってはいけない。もしその人と自分の能力や学者としてのレベルが同じであるならば、自分が採用される日がそう遠くないと考えるべきで、ねたんだりしてはいけない。また、自分より劣っていると思う人が採用されたというなら、その大学に見る目がないか、その人のすぐれている点を認識できていない自分に問題があるのだ。いずれにしても、外の騒音に耳を傾けず、研究や教育に熱心に取り組むべきで、腐っていてもしょうがない。

公募に応募するにあたって(7)

いくつか公募を経験すると、求められる書類に似たようなものが多いことに気がつく。たとえば、教育についての抱負であったり。そうした場合にも、字数などの制限は異なっているだろうし、面倒だろうが都度都度見直し、書き直しをしたほうがいい。書き直せば書き直すほどよいものになる可能性がある。またあまりに不採用通知を多く受け取り、面接にも呼ばれないようなら、ある時期に自分の書類に問題があるのではと思って検討するといい。公募は千差万別なので、必勝法はないが、自分に出来る工夫をする努力を惜しむべきではない。

公募に応募するにあたって(6)

ひとつの公募に書類を出した後、いったんその公募のことは忘れているほうが良い。考えたところで採用の確率が増すわけでもなし、心配しながら返事が来るのを待って過ごすのはよくない。また、連絡が遅いのは最終的な採用予定者が決まってから(内定と候補者の承諾)不採用通知を送る場合があるからだ。

それから、不採用となった公募について後々までくよくよ考えるのもよくない。残念と思っても、次にもっといい公募が出る可能性がある。それから、デキ公募だったと考えるのも無意味だ。そうであることを証明できない以上、考えたところで意味がない。仮にそうだとしても、意味がないのだから。

2017年1月25日水曜日

公募に応募するにあたって(5)

不採用通知を受け取り続けると、次第にモチヴェーションなどが下がってくることや、自己評価が下がってくることもある。しかし、だからといって、行く積もりもない大学に応募することはやめたほうがいい。就職して気に入らなかったとしても、次の大学が見つかるまではそこでやっていくしかない。就職してから思うように研究の時間が取れない可能性もある。すると研究者としての芽を摘まれてしまうことになる。公募先の大学の偏差値や評判などは重要。仮に大学全体としての評価が高くても、新設学科などでは学生を集めるためにどうしようもない学生も合格させているところもある。

一般的に就職先が出身大学よりも学業成績の良い大学であることはない。偏差値50の大学を出た人が偏差値60の大学に就職できる可能性はない。とすれば、就職先は自分の出身大学、そこで見知っていた学生のレベルよりも確実に低い。では、どこまでの低さを許容するか、という基準は自分の中で定めておくべきだ。一般に偏差値50を下回る大学に行くと(非常勤でも)苦労する。しかし偏差値というものが標準偏差である以上、50を下回る大学は上回る大学と同じくらいある。どこまでを許容するか。

当然ながら訳のわからない私立大学に応募することは避けたほうがよい。ただし研究環境やリソースが充実している可能性はあるので、行ってみたら意外とよかったということもあるだろう。

公募に応募するにあたって(4)

公募は資格試験などとちがって、応募者の中で一番の評価を得なければならない。したがって、たいていの場合出しても出しても不採用が続くことになる。しかしそれは自分に対して全面的なノンを突きつけられたと考えてはいけない。自分より条件に合致した候補者がいたというだけのことである。最初は書類だけで落ちるが、段々面接に呼ばれるようになる。面接に呼ばれるようになったら本採用も近い。

公募に応募するにあたって(3)

自分が公募に出していることが他の人に知られてしまうのではないか、という心配をすることもあるだろう。分不相応な公募に出している、などと思われてはいやだ、などの場合や、応募する先の大学に知っている先生などがある場合だ。しかし、公募の内容はそれほどオープンにされる情報ではないし、話題に上ったとしてネガティブな作用をもたらすことはほとんどといってない。気にしてはいけない。いっぽうで、すでに常勤職を持っている人が別の大学に応募する場合は慎重になったほうがいい。タイミングいかんによっては、それまでいた大学と新しい勤務先とのあいだに軋轢を生んだり、訴訟になることもある。

公募に応募するにあたって(2)

書類のフォーマットや業績の挙げ方について、個々の大学で異なる。したがって、都度それに沿う形で作成する必要がある。ただし、ひとつ自分の研究業績一覧を作って、それを常にアップデートする(論文や発表を追加していく)ようにしておけば、あまり面倒くさい作業ではない。一方で、非常勤歴などについては、シラバスを提出するように求められる場合もあれば、内容の概要だけで済む場合もある。いずれにしても、昔のデータはやはり保存しておく必要がある。

なお、提出に際して簡易書留などの指定がある場合はそれに従うほうがいい。エクスパック、レターパック、その他を使ったほうが安くて早いという場合もあるが、そもそも先方のルールに従えないのであれば応募するべきではない。

公募に応募するにあたって(1)

教員公募は昨今透明性が求められているので、出身大学の先生から内々に話があり、という人事はなかなかない。公募情報は科学技術振興機構で公開される。公募に応募するにあたって、第一の条件は学位を持っていること。博士号を取得できていない場合は、どれほど応募しても落ちる。書類審査でまず落ちる。なので、博士号を確実に取れる見込みが立ってから応募する。さもないと時間がもったいない。

すでに学位を持っている人が上のHPで条件などを入れて公募を探すときに、検索の間口を広くすること。たとえば、フランスの20世紀の哲学が専門だとしても、それを正直に入れてはなかなか見つからない。フランスとか哲学を別々に探していく。もしかすると自分とはあんまり関係ないかな、という公募でも、興味があったり、行きたい大学であればぜひ出してみよう。まぐれが起こるかもしれない。まぐれについては、色々な話があって、最初Aという分野で公募をしたが、Bという分野の結構いい人材が来たので、拡大解釈をしてBの分野の人材を採った、というケースがある。また、Aという分野で募集をしたところ、たまたま別の部署で採った人材に似た人材だったために、わざと人事を流した(なかったことにした)というケースもある。

自分は採用側にもかかわったことがあるのだが、闇雲に人事をする大学はたぶんない。ある程度のあたりをつけているはず。それは○○の分野だとどこそこの大学関係の人が来るだろう、というように。いっぽうで、特定の人材を念頭においていたり、公募が出てから「うちの大学で公募が出るから出してみない?」と声をかけたり。ただし、この後者は誘われたからといって確実性が増すわけではない。

内部に知り合いがいると有利という話はあるが、採用は3-5人くらいのチームで検討をするので、その全員のメンバーと知り合いでない限りなかなか難しい。ただし、有利に働く可能性は高い。

また、かかわりのある大学、たとえば出身大学や教えに行ったことのある大学だと、知り合いが多い可能性が高い。そうすると、ああ、あの人なら安心だ、と思ってもらえることはある。

しかし、まずは学位があることが必須条件であることは変わりない。

2017年1月24日火曜日

非常勤のデメリット

大学の非常勤はようするにアルバイトなのだが、仮に1コマあたりの給料がよくてもコマ数をこなさない限りなかなか生活はできない。加えて勤務先までの移動時間(往復)、予習復習、課題添削やテスト作成の手間を考えると全然割に合わない。たとえば、このテーマなら一切予習をしなくても即興で授業ができる、というような人でない限り初めての非常勤先でうまい授業をすることは不可能なはず。したがって、初めて教壇に立つ人の場合は稼ぐよりも時間のロスが大きい。

非常勤先にはおそらく非常勤講師控室というものがある。そこでの人間関係が良好ならいいが、場所によってはお互いがライバル同士で足を引っ張り合うようなところもあるかもしれない。直接的な被害を受けないとしても、そういった場所にいることのストレスはおそらく、帰宅して勉強しようという意欲を殺ぐことになる。業界の醜いものを目にしてしまった、という暗鬱たる気分は研究者としての道をあきらめさせるかもしれない。

また、授業がうまいという評判が立って当初よりも多くのコマを担当させられたり、案外自分の専門ではない授業をさせられることもあるかもしれない。授業をすることは経験としてメリットだが、冷静に考えれば、もっとするべきことはあるはず。常勤の先生がしたくない(面倒くさい、厄介)授業を非常勤に振ってくることが多い。個人的な経験だが、新入生対象のオリエンテーションで非常勤なのに参加して説明をさせられたことがある(常勤の先生は参加せず)。今思えばあり得ない話だ。

さらに、外国に調査研究に行かなければいけない分野の人の場合、どうしても時間、期間の制約が出来てしまう。したがって、教歴を積むことよりも現地調査の方が重要であるなら、非常勤など比較するまでもなく却下だ。研究にまい進したほうがずっといいに決まっている。

非常勤のメリット

非常勤をすることのメリットとして、人に会うことはすでに述べたが、先生ばかりでなく、似たような境遇の大学院生と出会うことにもなる。それは現在博士論文を用意している(提出した人もあるだろう)という大学院生たちだ。違うジャンルでも刺激を得ることは出来るし、将来どこで一緒に仕事をすることになるかもわからないので、いい人に出会ったら仲良くしておこう。

また、非常勤をするとその大学のリソースにアクセスできる。場合によっては非常に立派な図書館を持っている大学もあるので、仕事をする見返りに研究支援を受けていると思えばいい。非常勤をしていると夏休み、冬休み、春休みしか自分の研究に専念できないのだが、長期休暇(とくに夏と春)は大学生もほとんどいない贅沢な環境で、思う存分勉強できる。つまり、8ヶ月間労働をして、残りの4ヶ月間研究だけをしていいという、すばらしい生活が出来る。4ヶ月で書けない論文なら、1年あっても書けないはずだ。時間が足りないは言い訳にすぎない、最低の部類の言い訳だが。

最後に、外に出て仕事をする、人に会う、さらに給料を貰うということが精神衛生上とてもいい。大学院生で「自分の研究には何の意味があるのか」という悩みを抱えていると、研究が進捗しない。意味のあるなしは他者が判断を下すということにして、とにかくできることに専心するほかない。その上で、非常勤をしているととてもいい。

非常勤をすることについて

どのような紆余曲折を経たとしても、博士号を取得したものとする。その上で、すぐに教員になれればいいのだが、公募がないなどのこともあるだろう。その場合は非常勤などをしながら生活、研究、勉強を続けることになる。理系の場合、研究室に残ったりすることも出来るだろうが、文系ではそれは難しい。

非常勤で教えることは博士号を取得する少し以前から始めておいたほうがいい。それは教育歴(教歴)をつけるためでもあるし、他の先生に顔をつないだりすることにもなる。また、研究者としてだけでなく教育者としてすぐれていなければ昨今の大学教員にはなれないので、実践、修行の場として捉えることが出来る。最初は一コマの授業をするのに半日、一日、それ以上の時間をかけて準備をすることになる。そしてヘトヘトになって帰ってくると自分の研究などなかなか。

割のいいアルバイト感覚で考えているひともあるが、実際はそうでもない。一コマ(90分)あたりの給料に、授業準備、移動(時間と費用)、社会保険その他もあるので、決して楽ではない。なお、非常勤をやりすぎてしまうと博士論文を書く時間、自分の研究をする時間が殺がれるので、本末転倒になってしまう。常勤からすると(大学からすると)、非常勤のほうが使い勝手がよく(無理難題と思われる講義テーマでも引き受けてくれる)、給料も安くて済むため、便利だが、非常勤をまじめにやっている人にとってはたまったものではない。なのでほどほどのところでなんとかする。

非常勤の話をもらっても、待遇などがはっきりしているケースはすくない。一般に私立大学のほうが給料はいい。もし自分の先輩などが常勤が決まって、持ちコマをまわしてくれる(非常勤のポストを譲ってくれる)のであれば、かなり詳しい話が聞けるはず。あの大学は遠いだの、学生は質がいいだの。いずれにしても、責任は重大なので、あまりホイホイと引き受けるのはよくない。自分にとっても、相手にとっても。

「なれない」人の共通点

お金をどう使うか、ということは人格の表れでもある。それについては前項参照のこと。それ以外に、大学教員になれない人の類型をざっくり挙げておくと・・・

完璧主義者
自分が一番(ナルシスト)
口ばっかりで成果がない

といった欠点がある。これらは、振り返ればすべて同じことを指示しているようにも見える。要するに、大学院生なぞ何の役にも立たないものだが、当人が自分は優れていると思っている場合が多い。

そういう人は海外に行って鼻っ柱を折られてくるといい。

それ以外ではケチな人。こういう人は出ていくお金が少ない分、入ってくるお金もまた少ない。そもそも大学教員はお金持ちになれる職業ではないので、目的からして間違っている気がする。もし憧れで大学教員を目指すなら、よほど家柄がいいか、才能がある人でなければ目指してはいけない。なりたいと思ってなれる職業ではない(残念ながら)。

身銭を切る

変なタイトルだが、二つのことについて「身銭を切ること」は大事だ。

ひとつは研究成果の発表について。論文なり、発表なり、形にするにはお金がかかる。たとえば論文であれば掲載されても抜き刷りをもらうのにお金がかかることもある。でもその投資はするべきだ。もしその論文が素晴らしい出来なら、素晴らしい見返りが用意されている。おっと、本を買うのをケチる人は論外だ。そういう大学院生を山ほど見たが、みな教員にはなっていない。好きなことにお金を使うのは投資として健全だ。

もうひとつは、人付き合いの中で身銭を切ること。これは、次のようなケースを想像してほしい。

大人数で研究発表をした後、飲み会をした。たまたま人数で割り切れない感じの請求書が来た。どうするか。迷わず払う。気持ちよく飲んで帰ったな、という印象を持ってもらうのがひとつ、もうひとつは、あの人は頼れる人だという印象を残す。お金は使い時と使い道がある。下の下の策はなんだかんだの飲み会を断ること。もう誘ってもらえなくなる。

要するに、お酒を飲めることはアドヴァンテージになる(後者について)。

大学院でするべきこと(10)

ディシプリンをもって仕事をする。ここでいうディシプリンは、習慣づけのような意味。世のサラリーマンは9時から6時くらいまで仕事をしている。いっぽうの大学院生は、授業の駒などで規定されるほかは、ずっと勉強していてもいいし、遊んでいてもいい。自分で律しない限り、誰も代わりには管理してくれない。問題は、24時間ずっと研究していることは、していないのと同じくらい効率が悪い。何時から何時までは○○の論文を読む。午後は○○の目次を作る、本文を書く、という風に、大まかでも仕事の内容を分割しながら、する。そして大事なことは、仕事をしない、研究をしない時間を明確に設けること。そうしないと、してもしなくても、「自分はやっている」という言い訳を作り、一方で「進んでない、出来てない」という自己嫌悪にはまりやすい。研究者も人間なのだから、人間らしい生活をしてほしい。心を病んで大学院を去っていく人の数は多い。けれども、自業自得だな、という人の数もまた多い。

大学院でするべきこと(9)

難しいことだが業績を作る。それは研究発表、論文、ポスター報告など。査読ありのほうが望ましいが、ゼロよりは査読なしでも論文が1,2本あるほうがまだいい。外国の学会などのものもチェックして、出せるもの、応募できるものは基本的にすべて出すこと。返事が来てから論文を準備してもいい。ようするに、意欲のあるなしだ。書いてから応募しようと思っても、いつまでも応募できない。

大学院でするべきこと(8)

博士課程に進むと日本学術振興会特別研究員に応募できる。これは、将来教員となった際に科研費を申請する際の練習にもなるので、ぜひ応募したほうがいい。ところで、最初の特別研究員は修士2年の時点である程度準備をしておく必要がある。書類の量が多いし、書類に書けるような事項を用意しておく期間でもある。具体的には雑誌論文などがあるほうが有利なのだから、申請前までに公表できるものを創っておくほうがいい。落ちてもめげる必要はないが、必ずとる気で応募すること。これが取れない人が教員になれる可能性は低い。

なお、これに関連して、自分の業績を項目ごとに整理して、つねにアップデートする習慣をつけるとよい。これは公募の際に非常に役に立つ。

大学院でするべきこと(7)

名刺を作るべきだ。ビジネスをしているわけでもないから、意外に思われるかもしれないが学会や研究会、その他の場所で自分のアピールをするときに、あるのとないのとでは全然印象が違う。とっぴなデザインにする必要はないが、自分の専門領域がある程度わかるようなものにすると、「○○大学にこういう人がいたな」と思い出してもらえる可能性が高い。いつか遠い将来にその縁で仕事をさせてもらえることがあるかもしれない。

2017年1月20日金曜日

大学院でするべきこと(6)

分野によっては関係がないかもしれないが、やはり留学などはしておくべきだ。それは学歴に箔をつけるというよりも、武者修行や他流試合、そして異なる環境でもやっていけるタフな人格を形成するための格好の機会だからである。また使えるリソースが異なる場合でも、着実に地に足を着けた(その場所でできる最良の)研究を実現できることを試されているのだ。国外でなくてもいいが、外に出る機会は持ったほうがいい。それは例えばよその大学院の研究会にゲストで参加して発表するなどのことでもいい。

大学院でするべきこと(5)

研究をして早く学位論文を仕上げれば、それだけ仕事に就けるチャンスが多くめぐってくる。したがって、規定の年限(修士2年、博士3年)で論文を完成させられることが最も理想的だが、実際にはなかなか研究がはかどらないというか、研究そのものに着手するよりも自分自身の知識の不足を補うための勉強にとられる時間が多すぎて、それどころではない。それゆえに、研究できるときはしっかりしたいとあせるのだが、一方で他の研究者の発表を聞くことのできる機会には、万難を排してでも出席するべきだ。それは先輩たちの論文発表会でもよいし、先生や院生の研究会に参加するなどでもよい。そういった場所に足を運ばなかったからといって、自分の研究が飛躍的に進捗する保証はないし、そもそも、人に会うということが非常に大事なのだ。それは仕事を見つける上でも大切なことだ。

大学院でするべきこと(4)

資料を探すコツを身に着けること。それは将来大学教員となって、不案内な領域について知識を得なくてはならなくなったときに必ず役に立つ。ILLなどを駆使するのもいいが、色々な図書館(大学、公共ともに)に足を運び、それぞれの使い勝手を知悉しておくとよい。この手の雑誌はここにありそうだ、という見当がつくこともあるし、所蔵は多いが閉架だから別の場所で閲覧しよう、ということもわかってくる。それに、関係ない大学の図書館であっても、案外快適な読書スペースとなったりする。

大学院でするべきこと(3)

人と合っていない時間はとにかく本を、文献を、論文を読む。現代ほどその入手が楽になった時代はないはずなのに、学生の読む分量が減ってきているのは不思議だ。自分で選んだ道なのだから、周囲が心配するくらい勉強する。どこで勉強してもいいが、かならず毎日決まった分量を読むようにするとよい。また目標を定めるといい。今日はこの本の100ページまで、とか、あの著者の論文を一日一本読む、とか。一日一本読んでも365本しか読めないのだから。

大学院でするべきこと(2)

文系なので実験などはそれほどないと思うが、とにかくたくさん人にあうこと。人にあうというのは、同じ大学院に籍を置く先輩も含めた大学院生たちのことで、彼らは将来同業者として(大学という世界の)一緒に仕事をするかもしれない人だし、分野が違ったとしてもそれぞれに優秀な人たちなので、あって話をするべきだ。これはよそでは得られない経験だ。大学組織そのものが細分化されていく中で、学生までもそれに歩調を合わせる必要はない。人に会うことが仕事だと割り切ること。いずれどこかでつながりができて、共同研究などに発展するかもしれないし、自分が不案内な問題について貴重な意見をもらえる場合もある。もちろんその逆もあるわけで、教室の仲間こそがライバルであり師となる。そんなこともあって、出身大学以外の大学院に行くのがいい。そこで殻の中に閉じこもっても仕方がないので、さまざまな機会に外に出て行こう。お茶を飲んだり、食事をしたり、お酒を飲んだり、すべてが勉強だ。

大学院でするべきこと(1)

文系の場合に、指導教員の専門と自分の関心が100パーセント合致する可能性は天文学的に低い。メジャーな研究をするのでない限り、別々の問題の研究者ということになる。それはそれでいい。もし同じジャンルで、同じスタイルで、同じ問題意識であるならば、指導教員のほうが経験がある以上、すぐれた研究者である場合が多いからだ。これから研究を進めていこうと考えている人間にとって、指導教員は先生でありつつ、同業者でもある。だからお互いに敬意を持って関係を構築していくべきだ。教えを請う以上立場は下であるけれど、先生が必要とする情報を学生が供与できる場合もあるだろう。大事なのはもらうばかりではいけないということ。そうすれば、相手もこちらを一人の仲間として扱ってくれるだろう。「指導してもらえない」などと口にする暇はない。勉強は一人でするもの。その相談相手を、高い学費を払って大学から一人あてがってもらっているだけなのだ。

言い訳はしない

見切りをつけるにしても、つけないにしても、最終的な判断は自分で下すしかない。大事なのは自分に言い訳をしないこと、そして周囲の何者のせいにもしないこと。才能と資質と運がなかったとして、それを持っていなかった自分が責任をとるしかない。厳しいことを言うようだが、「本当は大学院に残って研究したかったんだけど」という捨て台詞はみっともない。「自分はその器ではないと思ってやめました」という人のほうがどれほどすがすがしいか。いずれにしても、ある人が大学教員になろうとなるまいと、世界はそれほど変わらない。それに、誰も「大学教員になってくれ」とお願いしたわけでもないのに、大学教員を志したのは自分であることを忘れないようにしてほしい。やめるのも自分次第。だれもひきとめはしない。もっと優秀な人はたくさんいる。

見切りをつけるタイミング

大学院に進学したとしても、途中でそれをやめることは決して悪い選択ではない。間違えた道をいつまでも歩いたところで、目的地にはたどり着かない。この場合は、目的地(大学教員になる)そのものが間違っていた可能性もある。やり直すのであれば早いほうがいい。とりわけ、修士課程で見切りをつけるのはすばらしい。2年しか浪費していないし、経験も増え、大学院生としての生活もエンジョイできたのだから、意気揚々と別の人生に向かって歩き出せる。主観的に判断するのが難しい場合は、自分自身研究の進捗やクラスの中での位置、また所属の専攻の中で自分がブリリアントな学生であるかどうかを考慮する。仮に100人大学院生がいて、自分はその上位10パーセントに入っているという自信がないのであれば、見切りをつけたほうがいい。その10パーセントにしたところで、かならず仕事が見つかる保証はないのだ。途中でやめることは何も悪いことではない。

大学院進学前に考えること(4)

入ることよりも大事なのは、出たときのことだ。自分が博士号までとるのに何年かかるかを考える。10年後として、その時にちゃんと就職があるかどうかを考える。たとえ優秀な研究者であっても、仕事がなければ食べていけない。では就職が見つからなかったときに自分はどうするのか、を決めておかなければ楽天的に過ぎる。○年頑張ってだめなら別の仕事をしよう、という考えもいいが、大学院を終えて30歳前後であることを考えれば、選択の幅は広くない。ようするに、だめだったときにどうするかを綿密にシミュレーションしておく必要がある。とはいえ、このことについて楽観的な大学院生が多いのも事実だが、そうでもなければ不安で苦しいからだろう。

博士が100人いる村という動画を見たほうが良い。

大学院進学前に考えること(3)

現実的になれば、お金のことを考えなければならない。実家が裕福であろうとなかろうと、学費を自分で捻出するのであれば、それだけの資金を用意する必要がある。たとえば現時点で国立は年間50万ちょっとだから、修士(2年)で100万ちょっと。博士(3年)で150万ちょっと。学費だけなら250万ためる必要があるが、実際には生活費や小遣い(遊ぶというより本を買うため)も必要だし、博士を3年で終えられる人はまずいない。いずれにしても500万くらいの金策が立っているべきだが、大学を出たばかりの人間にそれは難しい。いったん就職してその一部なりをためてから大学院に進学するのもいい。働いている間に進学意欲が減衰したとしても、それは悪い人生ではない。大学院には縁がなかったというだけのことだ。もちろん、親に出してもらうという人も多い。東大出身者は家庭が裕福な場合が多いが、多かれ少なかれ多少のお金がないと勉強はできない。それは教育機会云々とはまた別の話。いずれにしてもお金のめぼしをつけずに大学院に進むのは不可能だ。

大学院進学前に考えること(2)

卒論を書くのを楽しめたからといって自動で大学院にいけるわけではない。進むべき大学院がどこかを選択する必要がある。これは博士号の価値から行って、よい大学に行くことが望ましい。出身大学の大学院になんとなく残るのはよくない。居心地がいいばかりでなく、自分と切磋琢磨してくれるライバルがいない可能性もあり、その上卒論時点の指導教員がすぐれた研究者であるという保証がない。もし卒論を書いたのが旧帝大であったとしても、別の大学の大学院に進むことは望ましい。なぜなら、世の中には自分よりよくできる人がゴマンといるので、そういうひとたちと交わったほうが研鑽をつめるからである。旧帝大出身者はとりあえず東大か京大を目指す。

大学院進学前に考えること(1)

学部で卒業論文を作成し、学位を得るのと平行して大学院への出願をするのが一般的だ。しかし、いったん就職などをして仕事をしたあとに再び大学院に戻るという場合も少なくない。往々にして後者のほうがモチヴェーションは高く、しかし実力はちょっと低い。

卒業論文を書くということを楽しめた人は、研究が楽しかった人だ。まだたいした研究はしていないが、研究の真似事をして、向いてるかもと思った人だ。ただし、本当に向いているかはまだわからない。

苦労して卒論を書いた人、指導教員を困らせながら卒論をぎりぎりで提出した人は大学院に進んではいけない。その人は研究が好きではないし、大学教員にも向いていない。

願わくば卒論がすばらしいクオリティであるべきだが、卒業論文は業界的には誰も読んでくれないので(たまにすばらしい論文がそのまま学会誌などに載るレアなケースはあるが)、書き捨て。それは就職試験の際に出身小学校のことなど聞かれないのと同じ。卒論はたいていの人が振り返ると赤面したくなるほど大言壮語をして、大風呂敷をひろげた独りよがりなものである。問題はそれを書く作業(読む、書く、書き直す、読む、書く、書き直すの繰り返し)が苦痛でなかったかどうかだ。

大学教員を志すタイミング

大学教員になれる人の議論を踏まえるならば、大学教員を志すのはまず大学院に進むときにひとつの可能性として頭の隅に置き、博士課程に進むとき、より大きな可能性として検討し、博士号を取得したときに、ちょっと他の可能性はもう難しいと観念することになる。しかしながら、修士に進むとき、博士に進むときまでは、後退する余地がまだある。なので、絶対に大学教員になるなどと思ってはいけない。それは自分を追い込んで、苦しめるばかりの無益な決意だ。

大学教員になれる人

大学教員になれる人。

よくあるケースで、まだ研究も何もしていないのに大学院に進んで研究者になりたいという夢を語る学生に出会うのだが、それは大学教員という職業やステータスに対する憧れであって、十中八九大学教員には向いていない人だ。理想としては、研究が好きで好きで夢中になって研究している間に学位をとり、業績も十分あり、教暦(教育経験)もついて、結果として大学教員になることだが、実際は難しい。大学教員になりたいという意欲が皆無の人が研究だけに打ち込んでいても、なかなかなれない。なので、8割がた研究に打ち込みつつも、大学教員にいずれなれたらいいな、と思いながら日々努力をする人が大学教員になっているはず。割合は人によってまちまちだろうが、なりたい、だけでなれる職業ではない。

研究と教育

大学教員には研究者と教育者という二つの顔がある。ただし、教員になる時点での審査では研究者としての側面しかなかなか判断できない。授業が上手な教員を採りたいのは山々だが、数値化されていて判断しやすいのは研究者としての業績だからだ。したがって、教育者として大学教員になりたい場合でも、研究はおろそかにするべきではない。逆もしかりで、自分はすぐれた研究者だから授業はヘタでもいい、という人はおそらく研究者にも教育者にもなれない。天才肌の学者よりも、何事もそつなくこなせる人材を組織は必要としているからだ。

博士号の価値

まず国内的にいえば、有名な大学、たとえば東大の博士はとても価値がある。国立、とりわけ旧帝大のそれも価値がある。逆に二流の私立大学で努力をしても、かりにどんなに優秀な研究者であっても、ちょっと見劣りはする。ただし、分野によってどこの大学のそれが価値が高い、ということは異なってくる。

日本国内で就職するのであれば、一般論だけいえば、特段の事情がないかぎり東大を含む旧帝大の大学院に進むのがよい。

海外の大学院についても、抜群に知名度のある大学(ハーバードとかプリンストン、オックスフォードやケンブリッジ)のそれには価値があるが、それ以外のものは価値が低い。なぜかというと、「それはどこの大学?」ということさえわからないので、判断のしようがないからだ。この価値は、学位取得者の努力とは一切関係のない部分なので、それならあまり変なところで学位をとらないほうがいい。

大学教員になるには(最低ライン)

特殊な技能がある人が特殊な職業に就くことはある。プロのスポーツ選手や音楽家などはその例だが、研究者や教育者についてはどうだろう。潜在的にすぐれた研究能力を持っていたとしても、それが示されていなければしかたがないのだから、とりあえずは研究業績が判断材料となるし、それ以前に学位を持っているかどうかが問題になる。

文系、理系を問わず、特殊な事情がないかぎり、博士号を持たない人間が大学の教員になれる機会はほとんどといってない。なので、これが前提条件となる。博士号をとるには大学の学部を出た後に、修士課程(博士前期課程と呼ぶところもある)を終えて、博士課程(博士後期課程と呼ぶところもある)に進み、そこで博士論文を提出する。基本的に学部を4年、修士を2年、博士を3年で取れることになっているが、博士を3年で取る人にはなかなか出会わない。分野によっては間に留学などを挟んで、6,7年かける人が多いのではないか。

それぞれの課程では論文を書く。修士は修士論文を書いて修士号をもらう。博士は博士論文を書いて博士号をもらう。たまに修了年限以内に欠けなくても、単位を満たしていれば、その後数年間提出の猶予が与えられる。猶予というのは、出身大学の学生として論文の審査をしてもらえるということ。

いずれにしても、博士号を持っていることが最低ラインとなる。大学教員になりたいと思う人は、博士号をとらなくてはいけない。とったからといってなれるわけではないにしても。

潮目が変わった(2016年)

潮目が変わったというのは2016年、本当はその少し前からなのかもしれないけれど、非常勤の数が増え、その後公募の数が増えた。団塊の世代の先生たちが続々とリタイアしていくタイミングであったので、それにあわせてなのだけれど、やめられたあと空白期間を作ってしまうと、残りの教員の負担が一時的ではあれ増加するので、クレバーな大学は空白期間が生じないように人事を進めたのだと思う。

先生が辞めたところで、補充されない大学もあるだろう。子供の数は減っているだろうし、前任の先生の時代には必要があると思われていた研究分野が今はそれほど人気でない場合には、その人事を凍結するなり、ポストを一つ減らすだろう。人件費こそが大学運営、大学経営を圧迫するものの一つだからだ。

それでも、ポツリポツリと公募が出ていた頃に比べて、まるで堰を切ったかのように公募の件数が増えたので、2016年に潮目が変わったという印象を受けた。

2017年1月1日日曜日

自己紹介

自分が現在の勤務先に就職するまでの流れを書いておく。就職先では割と若い方だったが30半ばだった。

学部:国立大学(地方)

修士:国立大学大学院(東京)

博士:国立大学大学院(東京、上と同じ)

中途留学をしている。その後非常勤を数年した。

現在:公立大学(地方)准教授(任期なし)

はじめに

文系で大学教員になるというのは、とても狭き門だし、難しいことだ。とりわけ、確実性が非常に低い進路であるのに、求められる要件は非常に高い。かつ、その要件を満たすために費やす時間が膨大であるがために、重大な機会損失を伴う。なので、大学教員になるというのは、あまりおすすめできる選択肢ではないと思っている。

いっぽうで、2016年に潮目が変わったと思っているところがある。それは公募の数が増えたことや、個々の大学で求められる人材が多様化していることなど、さまざまな理由がある。そこで、おすすめするわけではないけれど、文系で大学教員を目指す人にとって、少しでも有益な情報を提供したいと思う。

もちろん、類書やブログもたくさんあるので、適宜参考にしてほしいけれど、確実性は低い道であるし、ある場合に当てはまっても別の場合にはまったく当てはまらないこともある。個々の時代によって、状況は異なるから、それぞれを自分の場合に勘案して、参考になることだけ参考にしてほしい。