2019年6月27日木曜日

公募で最適解に至ることは少ない

ほんの一時間、二時間を一緒に過ごした人について、すっかり知ることは難しい。まして面接や模擬授業と言った非日常の機会であればなおのこと。したがって、公募面接を経ても「なんで、あんな人をとったんだろう」と思うケースは多々ある。当の選考にあたった既在籍教員さえ首をかしげるような人材をとってしまうことはある。ここからわかるのは、あなたが行くのにふさわしい大学があなたを選ぶ可能性は低いということである。したがって、自分にふさわしくない環境から身を立てていくしかないのだ。

2019年4月18日木曜日

政治のせいではない

最近、報われずにポスドク時代を過ごし、自殺された方の記事が反響を呼んでいるが、ちょっと考えれば、政治の問題に転嫁するのは正しくない。どれほどいいスポーツ選手であってもプロになれない可能性もある。どれほどいいスポーツ選手になれる可能性を有していても、プロになれない可能性もある。そこはとにかく運なのだ。したがって、どれほど努力を重ねても最終的に運で決まってしまう職種を選んだ時点で、フェアだったかどうかを問題にするのは間違っているし、それは政治のせいではない。政治が介入して多くのポストが生まれたとしても、同じ状況は発生する。なりたいからといってなれるとはかぎらない博打に一枚かんだ時点で(大学院博士課程に進んだ時点で)「自己責任」というほかないのだ。

無論優れた研究者が職を得るべきだと思うが、優れた研究者の基準は千差万別なので、そんなことを問題にする方が間違っているのである。

2019年4月9日火曜日

大学とは集合

どれほど優秀な学者であっても、あるいは教育者であっても、組織の中で仕事をするという意識が希薄な人は歓迎されない。なぜなら、個々人のスキルや教養や知識をいったん無に帰して一緒に仕事をさせる仕組みが学科なり学部だからである。

表層的には、意に沿わぬ場合でも仕事をさせられるということがある。これはどこの職場でもいっしょ。

水面下では、自分以外の誰かと一緒に仕事をして、それなりの成績を残さなければならないということ。これは、大学が集合であるということ。

不祥事が起こった大学の評判は下がる。その時に、個々の教員の能力は一切勘案されない。同様に、個々人の能力たる者、大学という組織の中に組み込まれたときに、集合としてのそれになってしまう。では集合としての能力とはどういうことか、というと、故人のレベルに落とし込むなら:

1)顧客(学生)に対するサポート力
2)組織(所属する学部学科)の存続に寄与する能力

である。

2019年3月20日水曜日

年度末に思う

年度末にもなると会議ばかりが続く。大学は学生が入っては出ていく入れ物なので、それにかかわる案件が多くなる。教員もまた、もっとゆっくりとでは出たり入ったりする。入る方にばかり注意が向いているだろうが、たとえばよその大学に移る可能性もあろう。そういうことを踏まえて、どれくらいの期間その場所にいるかを考えてみるといい。固定ポストを得たばかりであれば、一生ここにいようと思うかもしれないが、次第に不満も募るだろう。なので、10年やそれくらいのスパンでステップアップすることを目標に過ごしてほしい。できれば、職位をひとつあげて新しい場所へと移ってほしい。

2019年3月12日火曜日

最初の数年

一般企業でも同様だが、最初の数年(2,3年)は仕事や環境に慣れるのに苦労するので、実質的には大きな仕事をしていない可能性が高い。授業に関しては、この期間に基礎体力をつけることが大事だが、それ以外の業務については、いろいろなところにかかわりを持つと良い。頼まれた仕事は極力拒まないこと。とくに「忙しいので」といって断らないこと。なぜなら、周囲の人はあなたよりもずっと忙しいのだから。ではなぜ仕事にかかわりを持つと良いかというと、それで自分の置かれている環境についての自分なりの見取り図が(経験から)構成できるから。そうすると、仕事の進め方についてさまざまなヒントやティップスを得ることができる。案外知らないとそんなコツもあるはずだ。

2019年2月21日木曜日

年度終わりは年度初め

会議が目白押しな大学で、研究をする時間など確保できない。でもそれは欧米でも、どこでも、おそらく事情は変わらない。

時間がない中で研究をし、業績を積むことのできる人が、以後生き残っていく。

とすれば、仕事に束縛され、雑事に振り回される以前の状態にある人は、研究するに如くはない。

年度終わりは試験で忙殺。年度初めは新入生で忙殺。忙殺されていない時期はいつなんだろうと思う。

2019年2月7日木曜日

確実に教授になれない人

確実に教授になれない人、イコール教員になれない人、と言える。

業績がない。
職歴がない。
才能がない。

最後のものは補足が必要だと思う。才能がありすぎて教員になれない人がままあるからだ。けれど、そうした人はかならず大きな仕事をする。

もし世の中が広いので自分自身を井の中の蛙と想定するならば、問題となるのは前二者である(はずだ)。

そのなかでささやかに業績を積んでいくことが大学教員に近づく道となろう。とはいえ、本当に運まかせだと思う。運まかせのものに、自分の運命を任せられるほど、あなたは楽天的だろうか?

本題に戻ろう。確実に教授になれない人は才能がない。けれど、才能があることを見出してもらえる実績がない人のことだ。

生活設計

仮に大学教員になったとする。一応社会的ステータスもあるとする。むろん、博士号もあろう。でも、世間から見たら好事家に過ぎない。ということは、大学や大学院という枠、そして入れ物を抜け出た時には変わった人に過ぎない。なので、そのことを自覚して生活設計していくことが望ましい。


2019年1月16日水曜日

マラソンに似ている

研究をしながら公募に挑戦することができるステージに到達できるまでにどれくらいの時間が必要か。たとえば学位を最短でとるのに5年。その間に発表や論文の準備も並行して行えれば理想的だが、実際には難しい。留学などの必要があるジャンルならなおのことだろう。したがって、仮に10年を最短とみなした場合に、モチベーションを保ち、不安や絶望に足をとらわれずに果敢に公募に出し続けることができるためには、無理をしすぎないこと、発展性のあるテーマを選択すること、研究リソースの目星をつけておくことが必要だ。時間とお金は言うまでもなく有限であり、年を取りすぎるとどんどん優秀な若手に追い抜かれていくことになる(当然、後から来る人の方が有利だ)。それでもやっていけるだけの環境を、精神論によらずに頑張れる環境を、自分で構築するほかない。

マラソンと同じで、ペース配分が大事。そして、ゴールすることが大事。これから大学院に進もうと思っている人は、楽しいからだけではやっていけない世界だと肝に銘じて決断してほしい。